お腹一杯でも食べたことのないモノは食べる!という、時にいやしい程の食への貪欲さをみせる。自身が商売経験もあることから商売人の精神力や生き様が垣間見える超ローカルな地元店に行くことも好きである。初めての一人旅は26歳。現在は心と体の関係に興味を持ちダイエット&ボディメイクをしながら、居を構えず色々な場所に住んでいる。⇒プロフィールの詳細はこちら
こんにちは^^
この記事を開いてくださりありがとうございます。
さて皆さん
いきなりですが
カンボジアと聞いてまずなにを思い起こしますか?
まずカンボジアには世界遺産で有名な
アンコールワットがありますね^^
※実は私カンボジアに行くまでアンコールワットが
カンボジアのモノだと知らないバカタレでした(/・ω・)/w
実際に訪れたときは、その言葉にできない素晴らしさにちゃっかり涙しました笑
では…アンコールワットの次は?
そう聞かれて頭に浮かぶのはなんとなく
‟貧しい国”
というイメージではないでしょうか?
私は2年前に初めてカンボジアへ行きました。
そしてそれが初めての海外旅でした。
初めて食べたカンボジアのご飯の味や
ずっと食べてみたかったタランチュラを食べたことや
アリだらけのプレートのご飯が出てきて気にせず食べちゃったことや
アンコールワットから見た朝陽が美しかったことや
旅に出た喜びでただただ涙した場所のことを
カンボジアの素晴らしさと共に綴りたいけど、今日は綴りません。笑
そして今書いたことは今回私がカンボジアへ行ってできた体験であって
私がカンボジアへ行った目的はまた別のところにありました。
今回の記事は私が何故カンボジアに興味を持ち旅に出たのか、
カンボジアは何故貧しいのか、
ある一人の男とカンボジアの歴史について触れながら、
私が肌で感じたカンボジアを記録していきたいと思います。
そしてカンボジアに行ったことはあるけど歴史は知らない方、
カンボジアに行きたいけど歴史は勉強してないって方にも是非知ってもらえたら、と思います。
長くなりますが読んでいただけると嬉しいです。
カンボジアの歴史といえばこの男
この人が誰だかわかるでしょうか。
そう、この人はカンボジアの歴史と切っても切り離せない男
ポルポトです。
学校などで名前を聞いたことはあるかもしれませんね。
ポルポトを語る前にカンボジアの歴史について知ってもらいたいのですが
冒頭でお話しすると
歴史なげー(´・ω・`)
めんどくせー(;´・ω・)
ってなる可能性も無きにしも非ずってことで
今回はポルポト政権になってからの歴史だけ説明させてもらいます。
さて話は戻って
このポルポトという男
カンボジアの負の歴史を語るうえで超重要人物となっています。
なぜなら、
自国民を虐殺しまくった男だから。
説明的な文章が続きますが
下でできるだけ分かりやすく説明していこうと思います。
5分で分かる!ポルポトとカンボジア
ポルポトは1976年~1979年の間
「民主カンプチア」という名前で
カンボジアを支配していた共産主義(クメールルージュ)政権の指導者です。(別名:ポルポト政権)
ポルポト政権時代ってたった38年前の出来事なんです。(2017年現在)
そして今もなお続く貧しさの現況ともいえるその政治は、たった3年間の出来事なんです。
私が生まれるほんの10年前の出来事だということも私を惹きつけました。
ポルポトはアメリカ的な資本主義
お金持ちがトップで
貧乏は最下層
教育の差別
などなど、階級のある世界を嫌いました。
毛沢東に(スターリンとも言われています)強い影響を受け
さらにそれを自分なりにアレンジした原始共産主義というものを理想に掲げていました。
・
を簡単に説明すると
- 人はみな平等である。
- 貧富の差や階級はあってはならない!
という考え方なのですが
ポルポトは想像を超越した原始共産主義という考えに行きつきます。
【本当に人が平等】で
【紙幣なんか無く】て
【王なんかいなくて】
【階級もなくて】
【一番平和な世の中】とは、、、
それって狩猟採取してた時じゃないの?と。
そう信じたポルポトは
原始時代を理想に掲げそれをぐいぐいと進めていきます。
これだけ聞くとどこに大きな問題があるの?
と思う方もいるかもしれませんが
この考えからポルポトの常識では理解できない行動が爆発していきます。
まず国民は強制的に都市部から農村部へと着の身着のまま連れ去られ、農業に従事させられます。
今まで農業なんかやったことのない人達が強制的に一日休む暇もなく
炎天下の中奴隷のように使われました。
そんな時
とポルポトは知識人、いわゆる学者や医者などを集めました。
農業に従事していた知識人は
つらい労働から解放されると喜んで手をあげやってきました。
そしてその人たちはポルポトにとって
本当の平等を叶えるために居てはならない人、いわゆる格差を生む人たちでした。
そう。
集めたのは皆殺しにするためでした。
- 学校の先生→知識人だ!格差をうむ!殺す
- 医者→知識人だ!格差だ!殺す
- 技術者→知識人だ!格差!殺す
- 学生→知識入れやがって!格差!殺す
と、次々に殺していきます。
そして復讐やクーデターされる可能性を0にするために、
知識人の子供や家族を徹底的に皆殺しにしていきました。
それだけでは収まらないポルポトは
- 眼鏡をしている
- 本を読んでいた
- ラジオをきいた
- 腕時計をしている
そんな理由でも知識人だとみなし殺していきました。
他にも
- 恋人がいる→社会風俗の乱れコロス
- 旧紙幣を持っている→反体制派コロス
- 子供に教育した→違う思想の植え付けは許さないコロス
- 手が綺麗→頑張ってないコロス
- イケメン・美女→格差だよねこれ?コロス
- 笑っていた→昔を懐かしんでいるなコロス
- 泣いていた→反発とみなすコロス
という風にみんな殺していきました。
(実際にあった話です)
ワタシ、コノジダイニウマレテイタラ
ナンカイコロサレテイルカワカラナイ( ;∀;)
とカンボジアの歴史を知った時は思いました(汗)
ポルポトの考え方で人間を殺していくと
大人は率先して殺されていきますよね。
その一方でポルポトは子どもを大切にしていました。
大切といっては語弊があるかもしれません。
子供だってたくさん虐殺されましたから。
ただ、
- 大人よりは自分の思想の植え付けがしやすい
- 変な知識をもっていない
ということで
ポルポトは子どもに原始共産主義の思想の植え付け教育をし、
その後だんだんと社会的役職の大人と子どもの逆転現象が起こり始めました。
なんとこの頃
捕まえられた大人を見張る看守は子供
医者の真似事も子供が、様々な役職に子供がついていました。
もちろん兵士も子供でした。
もちろんなんの知識もない子どもが手術をしたりするわけです。
医療なんてあってないようなものです。
そして密告制度なるもので更なる悪夢が始まります。
反体制派や知識人を見つけたら密告しろってものなのですが、
密告された人には処刑が待っているのは目に見えています。
そうなるとどうですか?
密告が怖くて怖くて疑心暗鬼になり、友人を裏切り、親は子を子は親を、兄弟親戚夫婦…
密告しなきゃ密告されるという精神状態に陥いっていきます。
もうこれは完全に悪夢です。
民主カンプチアが倒れたときには
200~300万人のカンボジア人が処刑や飢餓や病気で死んだとされ
(正確な数字はわかっていません)
その数はカンボジア国民の3~4人に1人ともいわれています。
そして生き残った85%が14歳以下の子供だったというので
これまた異常な世界です。
ちなみに子供は殺されなかったのかというとそうではなくガンガン殺されています。
以下、ポルポトの虐殺指令文書から有名な言葉です。
「我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。したがって伝統的な形をとる学校も、病院も要らない。貨幣も要らない。
たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。」
私はこの文章を初めて読んだ時
喜怒哀楽、どの感情でもない複雑なものが渦巻いて
胸が苦しくなり勝手に涙が流れました。
私がカンボジアに行った2つの理由
※この写真はカンボジアに到着した時の私の足w 日本から歩いて来たかのような汚さと浮腫み具合w
皆さん、今までのポルポトの説明だけで
ぐったりしたんじゃないでしょうか 笑
しかしこの記事はここからまだまだ続いていきます!笑
私はなんとなくカンボジアに行ったのではありませんでした。
合わせて何故私がこんなにポルポトについて語っているかというと…
理由は大きく2つあります。
①ポルポトへの共感を求めに
私は人間という生き物や心理についてとても興味があり
当時は様々な人間、心理、精神について調べていました。
例えば、犯罪心理や、マインドコントロール、
自分とは一見かけ離れているものや事柄に対し
【理解したい】
と強く思っていたんです。
メディアで叩かれる犯罪者と自分にはなんの共通点もないのか、
もし様々なことに対し理解ができたらもっと人やモノに優しくなれるのでは、
と考えていました。
そこからその知識欲は世界の独裁者へと広がっていきました。
私が中でもポルポトに興味を強く持ったのは
同じ人として共感できる部分が皆無という状態になったからでした。
例えばサイコパスの本を読んでも、猟奇的な殺人の本を読んでも
自分も少しこの人の気持ちが分かる、とか
自分もそうじゃないだろうか、とか、
共感はできないけど理解はできる、とか
そんな気持ちになることがありました。
しかしポルポトに関しては全く共感というか理解さえできず
‟正常な人間の気が狂った脳再現世界”
のように感じてしまったのでした。
私はもっとポルポトについて知りたい、
行けば何かしら共感できる部分が見つかるのかもしれない
という状態に陥っていきました。
それは【ポルポトへの理解と同情】
というよりも、どこかで
あまりに悲惨なカンボジアの歴史に対し
納得する部分を求めていたのだと思います。
②手を合わせたい
カンボジアに行く前、日本をまわっていました。
その旅の中、手を合わせた場所がいくつかありました。
例えば阪神淡路大震災跡
例えば中学生が殺されてしまった殺人現場。
私は死んでいった人や動物、自然に対し、もし自分だったら、と考えました。
今、人に何を望むか。
どうやって殺されたか?
どうやって死んでいったか?
過ちを繰り返さないこと?
復讐?生きること?
もしも私なら、誰かに
“自分が生きていたことを知って欲しい”
と望むんじゃないかと思いました。
私の勝手な考えですが
亡くなった方の生を感じに
そして手を合わせにカンボジアに行くことを決めました。
カンボジア初上陸
飛行機の中からワクワクしていました。
ポルポトやカンボジアの歴史はもちろんのこと
実は自分が行きたいと思った国を旅するのはカンボジアが初めてでした。
この頃の私は本当にお金の無い旅人で
日本を旅する中、カンボジアに行こう!
と決意し神奈川県で旅をストップさせ
2ヶ月間水商売で働きまくり貯めたお金の全額をはたきやってきました(/・ω・)/笑
飛行機の中では、
やっと来た。と静かに
ムネアツ(胸熱)状態だったわけです。笑
荒野が続きます。
どうやってこの貧しい国が
この人もいないような土地の管理をしているのか、終始気になっていました。
トゥールスレン虐殺博物館へ
まずプノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館へ行きました。
私が行った時にはところどころに撮影禁止の立て札がありました。
なので数は少ないですが自分が撮った写真を混ぜながら書いていきます。
※撮影できていたとしてもかなり生々しいので公開はできなかったかも…
ここはもともと学校の校舎でした。
だから見た目もそのまま学校でした。
しかしその外観に反し
ここはポルポト政権下で収容所として使用され、拷問の場所として使用されたとても恐ろしい場所。
トゥールスレンに来た人はあとはもう死ぬだけです。
実際にトゥールスレンには2年7カ月で14000~20000人の人が収容されたと記録されています。
そしてなんと生存者はたったの6人でした。
トゥールスレンを回るときには日本語で解説をしてくれる音声ガイドをつけていましたが、
そこでは何度も自尊心という言葉が出てきます。
自尊心・・・心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度。 社会心理学における自己の概念に関して、育み維持される自己評価や、あるいは「ありのままの自己を尊重し受け入れる」態度とする。
ここに収容されていた人たちはみな
殺される寸前の拷問を強いられながら精神を病み、自尊心さえも失っていったようです。
【自尊心が無い】というのは
自分を肯定する気持ち、大切にする気持ちが奪われているということです。
ただひたすらに私が今踏んでいる場所で
沢山の人が自尊心まで壊され死ぬ為にただ生きていたんだ、ということを想像していました。
沖縄の戦地後を巡った時、ひめゆりの塔に行き
手りゅう弾で集団自殺をした少女たちの記事を読みました。
私よりもずっと若い彼女たちの
【死を選ぶ】という洗脳された逞しさに余計に悲しくなったりもしました。
しかしここでは自分で死すらも選べないというまた別の悲しさがありました。
ちなみにひめゆりの塔でものすごい衝撃を受け生存者の方に向けお手紙を書かせてもらいました。
そのお手紙や感想がひめゆり第27号に掲載されました。ありがとうございました。
トゥールスレンの一室一室、この時代になっても不気味で怖く、入るのを躊躇うほどの空気。
拷問器具や当時を振り返る絵
死体の写真、殺された大人、子供の写真もまるで
卒業写真のように記録され淡々と展示されています。
私が簡単に登る階段の1つ1つが恐怖へのカウントダウンで、
下る階段の1つ1つが命が消されるカウントダウンで…
意識しても理解できない。
本当に私はココを踏んでもいいのか
と何かにずっと問いました。
平気で階段を昇り降りすることがとてつもなく
悪いことのように感じました。
外は快晴で
ブーゲンビリアの花が咲き
平和な鳥のさえずりが聞こえ
トゥールスレンの中は
ジメジメと蒸し暑い。
軽く扱われた尊い命が数え切れないほど存在していた場所は
空気はどよんとしていて今もなにかにおう。
このギャップを当時ここにいた人たちは
どんな気持ちで見ていたのか。
想像以上に酷い現実があったことに
頭がついて行かず何度も涙が出そうになるのにまた体の中に消えていく。
私がここへ来た理由、
私はそれを第一に考え、死んでいったことよりも、
笑いながら苦しみながら私たちと同様一人一人が生きていたことを想像し、
淡々と飾られた写真を全て(特に顔写真や名前の記録)見て、手を合わせました。
最初の頃の写真には番号の札がつけられ
後は多すぎて番号もなくなっていったそうです。
私は以前写真家として活動していたことがあり
その頃出会った写真家の女性は
このトゥールスレンに飾られた人物写真を見て
こんなに悲しいポートレートがこの世に存在するのか
というショックで人の写真を撮れなくなったと言っていました。
キリングフィールドへ
次はキリングフィールドに行きました。
ここは処刑場。
トゥールスレンに収容されていた人たちが
“新しく住む場所へ行く”
といきなり夜に連れてこられ殺される場所でした。
処刑される人自らが処刑リスト内の自分の名前をチェックすることもあったそうです。
殺され方も想像を絶します。
農作業で使う鍬やその辺の植物のかたい枝など。
お金を使わずに力とその辺の道具で殺します。
老若男女、幼児も妊婦も構わず殺されます。
生き埋めも当たり前でした。
未だに骨や歯や衣服がそこらじゅうから出てくるそうです。
犠牲者の方の衣類は本当にそこら中の土から見えていました。
大量埋葬地があり、供養と祈りを込めてミサンガをそこに置く
ということを誰かのブログで読んでいたので
私もお気に入りのミサンガを持っていき置いてきました。
ミサンガが沢山付けられている木はこの場所の発見当時、血や肉や脳みそがたくさんこびりついていたと聞きました。
乳児、幼児が母親の前でこの木に叩きつけられ、土の穴の中に放り込まれたりしたそうです。
私は同じ女性としてなんというか
もう言葉にできない悲しさと同情を覚えました。
きっとお子さんがいるお母さまがこの記事を見ると
もっと辛いのかな…なんだか申し訳ない。
ここにきてもう何を思ったらいいのか分からなくなりました。
何故ここに来たかったのかも、命は本当に尊いものなのかも。
考えること自体が失礼な気もして…
各所で手を合わせて心で言ったのは、
“私はあなたたちが生きて死んだことを知りましたよ”
とその一言で、
そんなことが何かの救いになるのか
と1人で悲しくなりながら
1つ1つの命が尊ばれる世界になりますように、とただ願っていました。
40度近い気温の中何時間も外で負の歴史に触れ、心も体も疲弊しました。
戦争博物館へ
ここは1970年シアヌーク政権が倒れてから
1993年にカンボジアで民主政権が発足するまでの
カンボジア国内での戦争の歴史、戦争に使用された武器や戦車などを展示している博物館です。
博物館…日本人での感覚で行ってはいけません。
この博物館、全部外にあります。笑
戦車やヘリコプターや飛行機がドンドンドンと置かれているこの場所では、
地雷や銃に直接触れたり持ったりすることができます。
あ、そうそう。カンボジアといえば地雷というのもよく話に出てきますよね。
これはポルポトが地雷を最強の兵士として愛した結果なんですね。
今もなお地雷はそこかしこに埋まっており、教育を受けられない子供たち、分かっているけど生きるために畑をするものたちが命を落としたり、足や手を失っています。
実際にカンボジアにいくと
そんな人に容易く出会えてしまいます。
つい最近まで内戦があっていたせいなのか、都市部以外に当時からの変化があまり見られないせいなのか、街並みの風景はそのまま、人の着る服や生活も大きく変わったところは見られず。
それ故、飾られている内戦時代の写真と
私が見たカンボジアに過去や現在といったような時間軸は感じられず、
容易にこの国の人たちが武器を持ち人を撃ち、泣き叫び殺されるような姿が想像できてしまいました。
博物館というには質素なものだけれど、
外にあるおかげでこの土地で戦うということ
暑さという過酷さまで伝わってきます。
ここにある全てが人を殺す為の道具なのだと思うと悲しくなる。
戦うとはなにか、力とはなにか、痛みとは、生き死ぬとは、
戦車の銃口の前に立って考えました。
戦車諸々は錆びついており、蜘蛛の巣が張られ美しさも感じる。
静かな空間に鳥の声が聞こえ、木々には花や果実、子どもの笑い声、ラピュタを見ているような、終わりの美しさを感じることも。
その日の私の日記には
”生き続けるものよりも、終わるものの方が美しいと私は思っている。
ただ争いに関しては、終わるや始まるの概念自体が無いと思った。
争いの中心、核なる部分は、生まれた意味の無い形も無いもの、命すら無いもので出来ているからだ。なのに、枠は殺し合いという、不思議なもの。いったいこれはなんなんだろうか。
その一方で生み出された兵器にはどういった命が与えられたのか、無造作に置かれた鉄の塊を汗をかきながら眺めていた。”
と書いてありました。
その時の私の生の心内なので記録しておきます。
カンボジアに行って気付いた3つのこと
①年寄りがいない異様な世界
ポルポト政権時代に大量に大人が殺されたことでお年寄りの姿をみることがあまりありません。
しかも、本当になっかなか見当たらないのです。
私はカンボジアで1日撮影をして回ったのですが出会えず…
これは行って気付いた異様さでした。
ナイトマーケットでも
若い人しかあまり見かけないのです。
②貧しさの慢性化
結局これもポルポト政権の負の遺産で
あらゆる知識人やその家族が殺されたため、
医療や教育において全く知識・経験・教育の無い国ができあがってしまいました。
そしてまだたった38年前の出来事ということでろくに教育を受けられなかった子供たちはろくな仕事につけず、その子供たちもまた教育の整ってない環境で育ち、常に貧困問題が付きまとっています。
仕事がある人はまだいい方で
ごみを拾い拾いながらや物乞いをしながら生活をする人は多くいます。
少し外を歩くだけでストリートチルドレンが
ワンダラーワンダラー
ギブミ―ワンダラー
と言ってきます。
本当に困っている子から、商売のように物乞いをしている子、合言葉のようになげかけられます。
③高い技術を持った民であった事実
冒頭で書いたアンコールワットにもせっかく来たし、と行くことにしました。
そこで想像を絶する大きさ、かっこよさ、繊細さ、優美さ、技術に驚きました。
カンボジア人の血はもしかしたらものすごいものなのかもしれない、と
この技術力や建築の力があれば、とアンコールワットを見ながら現状のカンボジアに悔しさを感じていました。
ちなみにアンコールワットに行くときにトゥクトゥクを利用しましたが、
その運転手のお兄さんに誘われてお昼はアンコールワットの公園でランチしました。
ここでお兄さんの家族の多くはポルポトに殺されたことを聞きました。
そしてそんな人はそこらじゅうにいると言っていました。
(日本でもおじぃちゃんとかひぃおじぃちゃんが戦争で亡くなった、という家庭は多くありますが、カンボジアにおいて少し違うところはこれは戦争や内戦でなく、たった1人の男の思想で同じ人種の自国民が虐殺された、というところです。)
中国人というよりは中国に対してすごく批判的だったので
もしかするとポルポトが毛沢東に影響を受けたせいかもしれないな、とも感じてしまいました。
ポルポトの晩年
ポルポトは82歳まで生きました。
歳で無くなったという説もあったり、毒を盛られたという説もあったり、
82歳まで生きたのだけは事実みたいです。
共産主義の独裁者とは結局のところ、自分が権力も金も握り贅沢三昧をするそうですが、
ポルポトは結構質素に、本当に原始共産主義が平和への理想郷だと信じ政治を行っていたようです。
ポルポトは晩年
『自分の良心に恥じることは何一つしていない』
と語っています。
負の歴史を【知る】とはなんなのか考察してみる
カンボジアに行って
私は結局やっぱり何一つポルポトに共感できませんでした。
いや、共感できない、という気持ちを強めただけでした。
こんな風に言ってしまったらとても残酷ですが
殺された沢山の人間は本当にただの無駄な死でした。
私が行ってずっと自問自答したのは
【知る】ということがどういうことなのか、ということでした。
よく戦争を知らなくてはいけない、と聞きます。
知ってどうするのか、
知ることは何に繋がるのか、
物欲よりも知識欲が強い私は日ごろから頻繁に自分に問います。
特にカンボジアでは悲惨な歴史に何度も何度も強く自問自答しました。
私なりに【負の歴史を知る】は
正を考えるきっかけであり、
喜びを生み出す力であり、
なにかを愛し続けようと決意することであり、
つまり未来である、
のかもしれません。
負を知ることは
再び負へと動かす力もありますが
それよりも大きく正へと動く力を持っている
と信じています。
逆に負を知らずにいることは
一見とても平和ですが
誰だって大切なものを守りたいと思っている世の中で
負に傾いていることに気付けず
知らず知らず大切なものを危険に晒している状態かもしれない
とすら思うのです。
【知る】ことは自分の人生を考えることと同じ事だと私は思っています。
また、知ることは行動や共有の第一歩であり、
私が日本からカンボジアまで来たのは【知った】からでした。
そしてこの記事を書き、共有する。
そこでまた誰かの胸に届けば、それは【存在】になります。
私の心の中で思ったことやメッセージが無形という形を持ちます。
それはどこかで何かしらの小さな小さなムーブメントになると信じて、今記事を書いています。
まとめ
最後はカンボジアでの濃い思い出を。
この写真はカンボジアで最も印象深かった時間の写真です。
この子たちは母親とバスに乗ってきました。
兄弟4人の長女がこの子。
バスの中で私にこの子たちは興味津々に絡んできました。
移動中ムービーを撮ったり言葉を教えてもらったり
沢山遊びました^^
そこでこの少女は自分の持っているお菓子を私にくれました。
なんだかとてもほっこりしました^^
そして6時間の移動の後この子は酔ってしまいバスの中で吐くのですが
自分で袋を用意して弟に色々指示をして
↓この子が弟
兄弟が助け合い、泣くことも騒ぐこともなくその場を静かに対処していました。
その間母親は一切子どもを心配もしないし
声かけもしていませんでした。
なんだか日本では見ることのできない光景だなぁと胸を撃たれ
この子たちに自分には無い強さとか逞しさを感じました。
今でも思い出す温かく、印象深い学びの多い時間でした。
それでは皆様、今日はこの長い長い文章を読んでくださりありがとうございました。
カンボジアへ行った際に、一瞬でもこの記事のことや歴史のことを思い出していただけると幸いに思います。
どうか出会ったカンボジアの人たちが幸せに暮らせますように。
すべての命が尊ばれる世界になりますように。
カンボジアで亡くなった方の魂に安息の地がありますように。
感謝と祈りを込めて。
リリー
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